東京地方裁判所 昭和63年(ワ)18621号 判決 1991年8月30日
原告
データイースト株式会社
右代表者代表取締役
福田哲夫
右訴訟代理人弁護士
門屋征郎
同
岡本敬一郎
被告
横山忠
右訴訟代理人弁護士
山田善一
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告は、原告に対し、金二億一〇〇〇万円及びこれに対する平成元年二月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
3 第一項に限り仮執行宣言
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二 当事者の主張
一 請求の原因
1 当事者
(一) 原告は、電子応用計測機器及び遊戯機器等の企画、製造、販売並びに保守を目的とする資本金五億五五〇〇万円、従業員約二〇〇名の株式会社である。
(二) 被告は、昭和五五年九月一〇日、原告に入社し、昭和五六年三月アメリカの原告の子会社データイーストUSインクに勤務し、昭和五九年四月帰国し、同年一二月海外事業部海外第一部次長、昭和六〇年四月LE事業部海外営業部長、同年一二月LE事業部開発部長兼海外営業部長、昭和六一年七月取締役事業部副本部長(業務用ゲーム開発責任者)兼海外営業部長、同年一二月取締役海外営業部長を歴任した後、昭和六二年三月一〇日退社した。
2 原告の事業内容
(一) 原告は、昭和五一年四月に設立され、当初はオーストラリア・ノルマ社製の電子測定器の国内販売代理店、半導体の輸入販売及びホーム用テレビゲームの技術コンサルタントを手がけ、昭和五一年四月から昭和五二年三月までの間、年商四〇〇〇万円を売り上げた。
そして、原告は、将来の事業の拡大のため、昭和五二年四月以降、テレビゲームのハード・ソフト開発メーカーとして再スタートを切り、同年ゲーム名、ジャックロット・ブロックゲームを開発し、その後テレビゲームのハード・ソフトメーカーとして、国内はもとより海外市場においても順調に発展、拡大していった。
(二) 被告が入社した昭和五五年には、資本金五四四〇万円、売上金五〇億二〇〇〇万円、利益一億六四〇〇万円、社員(従業員)九九名の規模になり、既にアメリカに子会社データイーストUSインクを有するまでになっていた。
(三) ところが、昭和五八年以降ゲーム業界は厳しい状況下におかれ、最大の輸出市場であるアメリカにおいても大手企業の倒産等が続出し、加えて国内市場においても新風俗営業法の施行による不況の兆候が濃厚となった。
この情勢の中で、原告は事業の多角化を手がけ、ポータブルファクシミリ、防煙マスク等の新規事業を推進してきたが、流動激しい経済情勢下で新規部門は全社一丸の懸命なる努力にもかかわらず、苦戦を余儀なくされていた。
3 被告の退職
被告は、取締役部長として、原告に対する不満もあり、昭和六二年二月九日、原告の社長である福田哲夫との間において仕事の話の中、原告は自分を使用する意思がないものと判断し、翌一〇日に確約書なる文書を社長宛に提出し、原告からの再三再四の慰留にもかかわらず、同年三月一〇日、取締役の任期を残しながら退職した。
4 被告の原告の社員の引抜き行為
(一) 原告の業務の特殊性
原告の業務の内容は前述のとおりであるが、具体的には、開発部、管理部、営業部、製造部の四つに区分される。
そして、開発部内はテレビゲームを開発する部門であり、企画部、ソフト、ハードの部門に分けられる。企画部は、テレビゲームのテーマの選定からゲームの設計(ストーリー・キャラクター・サウンドの作成)を企画する部門であり、ソフト部門はそれをゲームとして内容をプログラム(コンピューター言語化)していく部門であり、ハード部門はプログラム言語をもつコンピューター本体の設計をする部門である。
このように、開発部は、営業部、管理部等と異なり、特殊な部門であって、コンピューター等に熟知していなければならず、人材の養成に時間がかかり、その養成費用もかかる。
したがって、原告と同様の業務を行う会社においては、人材の確保等が会社の維持、発展のための主要な課題となっている。
(二) 被告は、昭和六一年一一月時点においては、取締役開発部長の職にあったが、ゲーム業界におけるアメリカのシカゴショーに、北原春樹、伏木巌、小浜大介(以下「北原ら三名」という。)の三名の社員とその他の開発部員を引き連れて渡米し、帰国した。
被告は、原告の開発部の中でも優秀な三名の社員である北原らの三名に対し、前記シカゴショー期間中等において、自らが取締役会に出席して得た会社に関する情報に自分の憶測や意見をおりまぜて原告の現況を非常に悪く言い、部下に必要以上に危険感を持たせ、また、原告の多角化路線を最早ゲーム開発から撤退する方針であるかの様な虚偽の話に捩じ曲げて申し向け、同人らに退職するように仕向け、煽動した。その結果、北原春樹は昭和六二年一月一〇日に、伏木巌は同年三月二〇日に、小浜大介は同年一月二〇日に、それぞれ原告を退社した。
(三) 被告は、原告を退職後、すでに準備していた訴外株式会社アレックススポーツを訴外株式会社ティエィディ(以下「訴外会社」という。)に商号を変更し、自らが代表取締役となって事業を開始した。
そして、訴外会社の目的をゲーム開発に定款を変更し、開発要員である北原ら三名を入社させてゲーム開発を行わしめ、昭和六三年九月ゲーム名「カベール」を発売し、訴外会社は、ゲームのメーカーとして名乗りをあげた。
5 被告の原告の社員の引抜き行為の違法性
原告は、ソフトウェアの開発が主で、昭和六二年三月期においても年商六二億〇八八〇万円、利益五億円強を計上するになっているが、その大半の売上がソフトウェアであり、開発の人材こそが原告の唯一の財産といえるほどである。
被告は、原告の事業が最も苦しい時期に、取締役並びに開発の責任者でありながら、本来の責任を放棄し、自己の利益のために取締役の権限で部下を煽動し、準備を進めていた自己の会社に引き抜き、原告の経営を更に窮地に追い込んだような行動をとったことは取締役としての忠実義務に違反することは明らかである。
6 損害
(一) 伏木巌は、原告在籍中、「カルノフ」の原案を作成したが、「カルノフ」は全国のゲームセンターに合計三八一五のプリント基盤が売れた。家庭用ゲームソフトにもファミコナイズされ、そのカセットもヒットした。売上額は四億二九八六万円(一枚当たり約一〇万円である。)、粗利益は一億五二六〇万円である。
北原春樹は、原告在籍中、「ウェスタンエキスプレス」の原案を制作したが、「ウェスタンエキスプレス」はプリント基盤の販売枚数が三二四四枚、売上額が三億四二四〇万円、粗利益は一億二九七六万円である。
小浜大介は、原告在籍中、「シュートアウト」のソフトウェアを制作したが、「シュートアウト」はプリント基盤の販売枚数が二二七六枚、売上額が二億五二〇〇万円、粗利益は九一〇四万円である。
(二) 北原春樹及び伏木巌は、ゲームの原案を企画、考案する担当者であったが、それぞれ原告在籍中、年間一本のゲームの原案を企画、考案していた。原案製作者のゲームソフト全体に占める役割は五〇パーセントに相当する。
小浜大介は、ゲームをソフトウェア化する担当者であったが、原告在籍中、年間二本のゲームのソフトウェア化していた。ゲームソフト製作者のゲームソフト全体に占める役割の割合は二五パーセントに相当する。
(三) 北原ら三名が原告を退社したことにより、開発部門の損失は(1億5260万円+1億2976万円)×0.5=1億4014万5000円であり、ソフト部門の損失は9104万円×2×0.25=4552万円であって、一年間の損失だけでも一億八五六六万円を越えるものであり、これら三名がゲームソフト開発に携われる年数分を乗じた額が原告の被った損害になるが、その額は二億一〇〇〇万円を下らない。
(四) 北原ら三名が原告に在籍していた当時のゲームソフト一本当たりの売上高は二億八八〇〇万円であり、業務用ソフト一本に占める経費は一本当たり五〇〇〇万円であった。
そして、右売上高から売上原価と一般管理費用を引いたものが一本当たりの純益であり、一本当たりの純益は七三八四万円であった。
一本当たりの純益は七三八四万円中に企画担当者の占める割合は47.5パーセントと認められるから、三五〇七万円であるところ、北原春樹及び伏木巌は年間それぞれ一本ずつのソフトウェアを企画していたから二人で年間七〇〇〇万円を越える貢献を原告にしていたから、引き抜きから訴訟提起までの二年間に原告は一億四〇一四万円の貢献を受ける利益を喪失した。
また、小浜大介のような優れたソフトウェア担当者は創造的な活動も行うために一本のソフトウェアに占める貢献度は高く、その貢献度は、32.5パーセントと認められる。そして、小浜大介については、年間1.5本、引き抜きから訴訟提起までの二年間に三本のソフトウェアをプログラムすることが期待できたから原告が喪失した利益は七一六四万円で、右の合計金額は二億一一七八万円となり、金二億一〇〇〇万円を下らない。
よって、原告は、被告に対し、取締役の忠実義務違反による損害賠償請求権に基づき、金二億一〇〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成元年二月二日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
二 請求原因に対する認否
1 請求原因1(一)のうち、原告が電子応用計測機器に関する事業を行っていることを否認し、その余は認める。
2 同1(二)のうち、被告が昭和六〇年一二月LE事業部開発部長の職にあったこと及び昭和六一年七月に業務用ゲーム開発責任者であったことは否認し、その余は認める。
3 同2はいずれも認める。
4 同3のうち、被告が昭和六二年二月一〇日に確約書を原告の社長に提出したこと及び同年三月一〇日に取締役の任期を残しながら退職したことは認め、その余は否認する。
5 同4(一)は認める。
6 同4(二)のうち、被告と北原ら三名が昭和六一年一一月にアメリカのシカゴショーに出席するために渡米し、帰国したこと、北原春樹が昭和六二年一月一〇日に、伏木巌が同年三月二〇日に、小浜大介が同年一月二〇日に、それぞれ原告を退社したことは認め、その余は否認する。
7 同4(三)のうち、訴外株式会社アレックススポーツは商号変更により訴外会社になったこと、被告が訴外会社の代表取締役となったこと、北原ら三名が訴外会社に入社したこと及び訴外会社が昭和六三年九月ゲーム名「カベール」を発売したことは認め、その余は否認する。
8 同5のうち、被告が取締役並びに開発の責任者でありながら、本来の責任を放棄し、自己の利益のために取締役の権限で部下を煽動し、準備を進めていた自己の会社に引き抜き、原告の経営を更に窮地に追い込んだような行動をとったことは否認し、その余は不知ないし争う。
9 同6は不知ないし争う。
第三 証拠<省略>
理由
一原告の本訴請求は、北原ら三名の原告からの退職が、被告の原告在職中に自らが取締役会に出席して得た会社に関する情報に自分の憶測や意見をおりまぜて原告の現況を非常に悪く言い、部下に必要以上に危険感を持たせ、また、原告の多角化路線を最早ゲーム開発から撤退する方針であるかの様な虚偽の話に捩じ曲げて申し向ける等の不当な退職勧奨(社員の引き抜き)に起因するものであることを前提とするものであるから、まず、北原ら三名及び被告の原告からの退職の経緯について判断する。
1 原告が遊戯機器等の企画、製造、販売並びに保守を目的とする資本金五億五五〇〇万円、従業員約二〇〇名の株式会社であること、原告が昭和五一年四月に設立され、当初はオーストラリア・ノルマ社製の電子測定器の国内販売代理店、半導体の輸入販売及びホーム用テレビゲームの技術コンサルタントを手がけ、昭和五一年四月から昭和五二年三月までの間、年商四〇〇〇万円を売り上げたこと、原告が将来の事業の拡大のため、昭和五二年四月以降、テレビゲームのハード・ソフト開発メーカーとして再スタートを切り、同年ゲーム名、ジャックロット・ブロックゲームを開発し、その後テレビゲームのハード・ソフトメーカーとして、国内はもとより海外市場においても、順調に発展、拡大していったこと、被告が入社した昭和五五年には、資本金五四四〇万円、売上金五〇億二〇〇〇万円、利益一億六四〇〇万円、社員(従業員)九九名の規模になり、既にアメリカに子会社データイーストUSインクを有するまでになっていたこと、ところが、昭和五八年以降ゲーム業界は厳しい状況下におかれ、最大の輸出市場であるアメリカにおいても大手企業の倒産等が続出し、加えて国内市場においても新風俗営業法の施行による不況の兆候が濃厚となったこと、この情勢の中で、原告は事業の多角化を手がけ、ポータブルファクシミリ、防煙マスク等の新規事業を推進してきたが、流動激しい経済情勢下で新規部門は全社一丸の懸命なる努力にかかわらず、苦戦を余儀なくされていたこと、被告が昭和五五年九月一〇日、原告に入社し、昭和五六年三月アメリカの原告の子会社データイーストUSインクに勤務し、昭和五九年四月帰国し、同年一二月海外事業部海外第一部次長、昭和六〇年四月LE事業部海外営業部長、同年一二月海外営業部長、昭和六一年七月取締役事業副本部長兼海外営業部長、同年一二月取締役海外営業部長を歴任した後、昭和六二年三月一〇日退社したこと、被告と北原ら三名が昭和六一年一一月にアメリカのシカゴショーに出席するために渡米し、帰国したこと、北原春樹が昭和六二年一月一〇日に、伏木巌が同年三月二〇日に、小浜大介が同年一月二〇日に、それぞれ原告を退社したこと、被告が昭和六二年二月一〇日に確約書を原告の社長に提出したこと、同年三月一〇日に取締役の任期を残しながら退職したこと、訴外株式会社アレックススポーツは商号変更により訴外会社になったこと、被告が訴外会社の代表取締役となったこと及び北原ら三名を入社したことは、いずれも当事者間に争いがない。
2 右当事者間に争いがない事実と、<書証番号略>、証人神原勝利の証言(但し、後記措信しがたい部分を除く。)及び被告本人尋問の結果を総合すれば、次の事実を認めることができ、証人神原勝利の証言中右認定に反する部分は措信できず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。
(一) 原告は、遊戯機器等の企画、製造、販売並びに保守を目的とする資本金五億五五〇〇万円、従業員約二〇〇名の株式会社であるが、原告は、昭和五一年四月に設立され、当初オーストラリア・ノルマ社製の電子測定器の国内販売代理店、半導体の輸入販売及びホーム用テレビゲームの技術コンサルタントを手がけ、昭和五一年四月から昭和五二年三月までの間、年商四〇〇〇万円を売り上げた。原告は、将来の事業の拡大のため、昭和五二年四月以降、界に参入し、テレビゲームのハード・ソフト開発メーカーとして再スタートを切り、同年ゲーム名ジャックロット・ブロックゲームを開発し、その後テレビゲームのハード・ソフトメーカーとして、国内はもとより海外市場においても順調に発展、拡大し、被告が原告に入社した昭和五五年には、資本金五四四〇万円、売上金五〇億二〇〇〇万円、利益一億六四〇〇万円、社員(従業員)九九名の規模になり、既にアメリカの子会社データイーストUSインクを有するまでになっていた。
ところが、昭和五八年以降業務用のゲーム業界は厳しい状況下におかれ、最大の輸出市場であるアメリカにおいても大手企業の倒産等が続出し、加えて、国内市場においても新風俗営業法の施行により、ゲームセンターの規制がなされ、業務用のゲーム業界の不況の兆候が濃厚となった。昭和五八年には任天堂株式会社からアミューズメント業界の救世主ともいうべき家庭用ゲーム機器であるファミリーコンピューターのハードウェアが発売されたが、原告においては、業務用ソフトから家庭用ソフトへの転換が遅れ、業績が不振となった。この情勢の中で、原告は事業の多角化を手がけ、これにより難局を打破しようと企画し、ポータブルファクシミリ、防煙マスク、椎茸の培養、浴用機器等の販売等の新規事業を推進してきたが、新規部門は苦戦を余儀なくされた。
(二) 被告は、昭和五五年九月一〇日に原告に入社した後、昭和五六年三月にアメリカの原告の子会社データイーストUSインクに派遣されて勤務して実績をあげ、昭和五九年四月帰国してからは、原告において重用され、海外事業部海外第一部次長、LE事業部海外営業部長、海外営業部長等を歴任し、昭和六一年七月には取締役に就任し、取締役事業副本部長兼海外営業部長となり、同年一二月には取締役海外営業部長となった。
ところで、(一)記載の原告の事業の多角化は、原告の社長である福田哲夫を中心に推進されていたが、被告は、福田の事業の多角化路線に消極的な立場をとり、次第に被告は福田との対立を深めていくことになった。
(三) 北原ら三名は、いずれも業務用のアミューズメント業界が不況に陥っていった昭和五八年までには原告に入社して、在籍していた者であるが、北原春樹及び伏木巌はテレビゲームのソフトウェアの原案を企画、考案する担当者であり、小浜大介は、作成されたテレビゲームの原案をソフトウェア化する担当者であった。
原告の社長である福田哲夫は、(一)記載のとおり、業務用のゲームの不況もあって、原告の事業の多角化を手がけ、経営の多角化により会社を安定させ、東証二部上場を目指すと折りに触れて社員に伝え、全体の朝礼会等においては、「ゲーム業界の将来は暗い。だから、防煙マスク、椎茸、ファックス、泡風呂等の新規事業を始めた。近い将来これらは、データイーストの柱となるすばらしい事業である。それまでエレクトロニクス事業部は辛抱して頑張らなくてはだめだ。」等と社員を激励した。
しかし、原告の新規事業は前述のようにいずれも軌道にのらず、悉く失敗に帰したうえ、右事業の損失の埋め合わせを求められたゲーム開発部門では原告の将来に対する不安、上層部への不信を募らせていき、次第に原告を退職するものが増加していった。
(四) 昭和六一年一一月にアメリカのシカゴにおいて、テレビゲームについてのAMOAショーが開催されたが、原告においても、社員の研修等のために、企画担当の社員等を派遣することとなり、原告の社長である福田哲夫と被告のほかに、企画担当の社員として北原ら三名をはじめ、青木某、権藤裕二が渡米し、他に尾崎ロイ、ハードウェア担当の篠崎某等が渡米した(なお、原告においては、北原ら三名の出張について、右三名が人選されたのは被告の意向が反映された結果であると主張しているが、同人らの出張申請書である<書証番号略>の決裁状況に照らして、右主張は措信しがたい。)。
北原春樹は渡米前に既に原告を退職する意向を固めていたが、原告においては入社三年未満の者については退職金がでないという規定があり、昭和五八年一一月七日に原告に入社していたため、退職を昭和六一年一一月以降としたいと考えたうえ、同年一二月のボーナスを受領したいと考えていたことから、退職の意思を秘匿して渡米した。
小浜大介は、青木某とともに福田社長から右出張の途中で当時ソフトウェア化を急がされて急遽帰国を命ぜられたが、その際に、その完成度及びその発売について福田社長と意見が対立し、(三)記載のような理由から原告の将来に対する不安、上層部への不信を募らせていたこともあって、帰国途上の飛行機の中で原告を退職する意思を固めた。
伏木巌(現姓長岡)も昭和六一年後半から原告においてゲーム制作を担当する意欲を失っていったが、北原春樹が後述のとおり昭和六二年一月一〇日に退職したこともあって、翌六二年一月末ころには原告を退職する意向を固め、当時担当していたテーマを終えたら退職しようと決意し、同年二月初旬に退職届けを原告に提出した。
そして、北原春樹が昭和六二年一月一〇日に、小浜大介が同年一月二〇日に、それぞれ原告を退社し、更にその後伏木巌が同年三月二〇日に、原告を退社した。
(五) 被告は、前記のように、福田社長の事業の多角化路線に消極的な立場をとり、次第に被告は福田との対立を深めていたが、昭和六二年二月九日にも福田社長と意見が対立し、福田社長から「君とはやっていけない。」といわれたことを福田社長の退職勧告と受け止め、翌一〇日に「昨日の退職勧告を受入れデータイースト株式会社社員を退職する事を、この書面にもって確認いたします。社内規定による一ケ月の猶予期間はこれまで同様精勤いたします。業務引継のための後任者を御指定下さい。尚役員任期の残余期間については御相談に応じます。」と記載した「確認書」と題する書面を福田社長に提出し、退職を決意した。そして、被告は、同年三月一〇日に「1.一九八七年三月一〇日をもって退職する。取締役については次の株主総会まで留任する。(中略)5.退職日をもって、横山のデータイースト株式会社に対しての義務及び責任は一切無くなる。但し在任中の仕事についてデータイースト株式会社より問合せや質問がある場合横山は出来るだけ協力して回答することに努める。但し商法に定める三月一〇日までの取締役在任中に発生した取締役としての責には応ずる。」という内容を記載した確認書を原告との間で取り交わし、同日、原告を退職した。
(六) 被告は、原告を退社後、友人が以前経営し、当時休眠会社であった株式会社アレックススポーツを買い取り、昭和六二年四月一〇日に右株式会社アレックススポーツの株主総会及び取締役会を開催し、役員、本店所在地、定款目的を変更するとともに、その商号を株式会社ティエィディと変更し、自ら代表取締役に就任した。その際、右株式会社アレックススポーツが休眠会社であり、それまでの取締役の選任もその登記もなされていなかったことから、その登記業務を依頼された被告の友人の税理士が便宜上、遡って被告ら取締役選任の登記を行った。
そして、北原春樹と小浜大介は退職後、時々電話連絡を取り合い、二人でパソコンゲームを作らないかという話等をしていたが、被告が原告を退職後三名で会い、訴外会社に北原春樹と小浜大介とが入社してゲーム制作をすることを約し、その後、北原春樹は、原告を退職することを決めていた伏木巌にも連絡をとり、訴外会社に入社することを勧めたところ、同人は、一旦は返答を保留したが、昭和六二年四月になって、訴外会社への入社を承諾した。
3 右認定事実を前提に北原ら三名の退職の経緯について判断する。
前記認定事実によれば、いずれも原告のゲーム開発部門に所属していた北原ら三名は、原告の新規事業がいずれも軌道にのらず、悉く失敗に帰したうえ、右事業の損失の埋め合わせがゲーム開発部門に求められたこと等から原告の将来に対する不安、上層部への不信を募らせて、北原春樹については昭和六二年一月一〇日に、小浜大介については同年一月二〇日に、伏木巌については同年三月二〇日に、それぞれ原告を退社したことが認められるけれども、右北原ら三名の原告からの退職に際して被告が原告在職中に自らが取締役会に出席して得た会社に関する情報に自分の憶測や意見をおりまぜて原告の現況を非常に悪く言い、部下に必要以上に危険感を持たせ、また、原告の多角化路線を最早ゲーム開発から撤退する方針であるかの様な虚偽の話に捩じ曲げて申し向ける等して退職を勧奨した事実は、これを認めるに足りる証拠はない。そのうえ、北原春樹及び小浜大介が原告を退職した時点においては、被告は、未だ原告に在職し、原告の社長である福田哲夫との意見の相違から原告を退職することを決意したのは、ようやく昭和六二年二月九日であって、訴外会社の代表取締役に就任した経緯については前記認定のとおりであるから、被告が原告在職中に、北原ら三名を訴外会社に引き抜くために、原告主張のような不当な退職勧奨をしたとは認めがたいというべきである。
二以上の事実によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は失当であることが明らかであるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官深見敏正)